小さな箱庭

夢物語

夕焼けの旅

 何かがありそうな気がして、一駅手前で電車を降りた。
 突然決めたことだったから階段から遠い号車に乗っており、改札を出るころには周りの乗客はほとんどいなくなっていた。見慣れない景色、というわけではないけど、少し疎外感を感じる景色。駅前のスーパーには大勢の人が集まっていたが、私は今日の特売品も、その特売品が売られている場所も知らない。
 何かがありそうな予感はそのままに、向こうの駅まで歩き始めた。

 落ち葉を掃く清掃員、放置自転車を見つける監視員、スイミング帰りの子供に夕飯のリクエストを求める母親、さまざまな人生を垣間見た。そこにはサラリーマンなんて一人もいなかった。
 ターミナル駅とは違う、地元の駅。そこには人々の生活が根付いている。せわしなさも憂鬱さもほとんど感じられない、のんびりした町。
 そんな土地から長らく離れた生活をしていると、何もかも忘れてしまうのだろうか。
 店舗面積と駐車場面積が同じくらいのスーパーを横目に、線路を見下ろす長くゆったりとした坂を下る。太陽に向かって、テンポよく歩く。美しい夕日に照らされた眼が瞳孔を閉じきらないまま、ただじっと空を眺め続けた。青く、赤く、時々白く。瞳に負担がかかってでも見ていたい空だった。
 光の中から歩いてくる人の顔は、眩しくてよく見えない。ベビーカーを降りて楽しげに飛び跳ねながら歩いている小さな子供の表情は、想像でしか描けない。
 でもそれは相手も同じらしい。「顔が光っていてよく見えない」と叫びながら誰かに手を振り続ける中学生は、なんとも神々しかった。友達かどうかの確証もないまま手を振ることができる呑気さ、屈託のない笑顔に感じる輝きを、中学生の私も持ちえていたのだろうか。もうすっかり忘れてしまった。
 忘れ去った感覚を、忘れかけていた地元の風に気づかされる。電車は息をつく間もなく線路にやってきては、あっという間に消えていく。喧噪と静寂の繰り返しの中を、夕日を眺めながらただ歩いていた。

 見慣れた町が近づいてきた。線路を走る電車の音は、大通りの上を通る高架の金属音に代わっていき、途端に騒々しさが増す。川の上に建つ駐輪場で自転車に乗らずにいつまでもスマホを見続ける高校生を横目に眺めては、この町に似つかわしいとさえ感じた。
 余裕がありそうで余裕のない、不思議な町。駐輪場を川の上に作らないといけないくらい土地が足りないのに、コロナ前に閉店した大きなホームセンターの駐車場の跡地はいまだ更地のままなのだ。中学校の教室が足りないにもかかわらず増築する土地がないのに、マンションを建て続けている。減り続けていた生徒数は再び増加し、1200人のマンモス校は健在らしい。しかし交流を持った先生のほとんどが去り、制服も変わってしまった母校は、もう近寄りがたい異質の地になってしまっている。
 太陽が建物に隠れ、しばらくするといつもの駅に着いた。何かないだろうかと、ある限りのコンビニやスーパーをはしごして眺めながら、いつもの帰路に近づく。うっすらと見える月が目に入った。
 日陰となったこの駅周辺に、人の生き生きとした声はなかった。あるのは、スーパーの自動音声と、機械的なレジ店員の声。
 これが私の住む町なのだろうか。いやおそらくそうではない。
 知らない土地にはフィルターがかかる。知っている町には嫌気がさす。知っている町と知っている町とを往来し続ける毎日では、その嫌気に気づくことはできない。ただそれだけの話。ただそれだけのことを、私達は気づけない、というだけの話。
 何か新しいものを探そうと思った時には、決まってコンビニを巡りながら帰る。新しいスイーツを見て、少しだけわくわくして、何も買わずに帰る。でも今日は探さなくても新しいものを見つけられた。夏に閉店してしまった花屋の跡地に、カフェができるのだそうだ。スーパーとコンビニと病院しかないような町に花が咲く予感がした。普段の帰路とは逆方向にある地にできるそのカフェを、私はきっと一駅分歩かなければ見つけることはできなかっただろう。もしかしたら来ることはないかもしれないけど、それでもいい、とメニューの写真だけ撮って立ち去った。
 今日のコンビニ巡りの戦利品は明日の昼食。それから今日のおやつ。スイーツは手に取らなかった。

 家の前に着いた時、すでに太陽は沈んでいた。それから何の気なしに後ろを振り返った。さっきよりも月が明るく光っていることに気づき、その時初めて周囲の街灯がついていたことに気がついた。
 強すぎる光があると、他の光に気づけない。むしろそれは闇となる。
 見えないふりをしているだけで、目の前には案外面白いことが転がっているものだ。それを知った、たったそれだけの、30分間の旅だった。

さよならのチョコレイト

 ライトが光る東京。
 小さなチョコレイトを一粒口に潜ませ、電車のドアをくぐった。
 広くて明るい夜の歩道を走り抜けて、今日もいつものお店へ走る。
 バックの紐を時々滑らせながら、握りしめたスマホで時間を確認しながら、昔からの仲間へ会いに。
「ごめん、お待たせ!」
 息を切らしながら地下への階段を下り、勢いよく開けたドアが閉まらないうちに謝罪の言葉が口からこぼれた。
 思い切りのいい大きな声は、このお店にも、この街にも似合わない。
「あ~、やっと来た」
「遅いよ、おつかれ」
 いつもの席で、いつもの二人が待っていた。
 高校時代から変わらないボブの髪をふわふわと揺らしていそいそとインスタをチェックする友人と、就活終わりにメイクだけ急いで仕上げたような姿なのに、きりっと大人びたもうひとり。明らかに語尾に曲線の伸ばし棒が入っているような人と一切入らなさそうな人という一見正反対な二人だが、三人集まればなぜだかバランスが取れている。
 誰からともなく連絡が始まって、気がついたらこのお店で集まっているのだ。
「ごめんごめん、ちょっと長引いちゃって」
「今日も忙しいね~。よっ、バイトリーダー」
「そのまま正社員に決まっちゃうんだから羨ましいわ」
「いやいや。そっちは就活順調?」
「見れば分かるでしょ?」
 自明の問いだ、とでも言わんばかりに来ている服をトンと叩いて見せてきた。一番早く就職が決まりそうだ、と話していたのに、気づけば彼女だけが未だ就活を続けている。そんな彼女が尋ねてきた。
「あれ、メイク変わった?」
「ほんとだ、今までのも好きだったけど、こっちも似合ってるわ~」
「すごい、二人は気付くんだ。ほんのちょっとだよ?」
 最近の気分でメイクを変えたのもあるが、実はだんだんと濃くなっているクマを隠すためでもあった。そのことはあとでゆっくり聞いてもらおうと思う。
「っていうか、最近めっちゃ働いてない?休みほぼないって聞いたし。大丈夫?そんなんだと彼氏に逃げられるよ~」
 横から「ちょっと」と小声で諫められてボブの友人は気まずそうな沈黙に立ち返った。そうだ。今日は私のこの話をするために集まったのだ。
「まあ大丈夫だから。二人ともそんなに神経質にならないでよ」
「あんたがそう言うんならね。それにしてもびっくりしたよ、結構長かったのに」
「高校入学してすぐの時からずっとだったでしょ。6年?7年?そろそろ結婚するんじゃないかな~ってみんなで羨んでたんだから」
「長く続けばいいってわけでもなかったんだよね」
 無理して笑みを作る必要もない。どんな自分も見せてきた二人だからこそ、思っていることをそのまま話せて、浮かんだ表情をそのまま出せる。二人もそれに対して気を遣うこともない。この距離感がたまらなく好きなのだ。
「じゃ、今日はたくさん話聞いてあげるから、いっぱい飲もう。乾杯」
 三つのワイングラスが、風鈴のように美しい色を響かせた。

 

 

 さよならは言えなかった。
 ラストシーンの海辺には、冷たい風が吹いていた。
 もうとっくに覚悟は決めていたのに、いざとなるとあの笑顔が焼き付いて、どうしても離れなくて。
 またいつものように名前を呼ぶその声を期待してしまった。
 でも、そんな時間は長くは続かなかった。
 水平線に日が落ちた時、私達は別々の道を歩き出した。
 言いたかったことはほとんど言えなかったのに、その日に持っていた最後のチョコレイトだけは、彼に渡すのを忘れなかった。

 


 たくさん話して、その分たくさん飲んで食べて、どこまでいっても満足には程遠いことは分かっているからこそ、私達は切り上げ方を知っている。いい頃合いだ、と雰囲気で示し合わせて、ゆっくりと支度をしてお店を後にした。
「喋ったね~」
「喋った。まだ足りないよ」
「私もう話すことないって」
 今日の話のネタは二人に搾り取られるだけ取られて、あとにはカラカラに渇いた喉だけが残ってしまった。彼とのことに対して好き勝手言ってきた二人だが、どの言葉にも棘はなかった。気付かれないように配慮をしてくれていたのだろう、と思い返して、お会計の端数は私が払うことにする。
「私明日も面接だから、今日はこれで帰るね」
「じゃあそろそろ解散にしよっか」
 三人の家のちょうど真ん中にあるこのターミナル駅は、いつもと変わらなかった。おのおの乗る電車や方向が見事に違うから、集合も解散も現地になるのにはすっかり慣れていた。
 いつもの挨拶を終えて二人と別れ、今日は違う路線に乗ってみた。
 街も二人も何も変わらないのに、私の人間関係は少しだけ変わってしまった。そのまま家に帰る気になれなくてなんとなく電車に揺られていたが、ドアの上の液晶から"銀座"という文字が目に入ってきて、なんとなくそこで降りた。
 あてもなく地下を歩き、気まぐれに出口を決めて外に出た。そこに何があるかは知らない。
 夜風に揺られて、ふと思う。
 そういえば、二人で銀座に来たことはなかった。
 セイコーの時計塔から照らされる灯りでオレンジ色に染まる街は、城下町の流れをくんでいるのか美しい平行線で構成されている。余裕と気品に溢れた銀座の夜に流れる時間はあまりにもゆっくりで、息をするのも楽になる。 
 小さく息を吐き、チョコレイトを含む。
 手を繋いで水平線を眺めたあの時のように、どこまでも行ける気がした。

 


 彼の住む街は、海の街。
 そこへ会いに行く時は決まって海辺を歩いた。
 時にはサンダルを両手に抱えながら、時にはローファーを水と砂でぐちゃぐちゃにしながら。
 大きな声で歌ったこともあった。
 漫画みたいなシチュエーションに憧れて、白いワンピースに白い帽子を着ていったこともあった。
 カレンダーの赤い数字の付く日は、いつしかその日に着る服の予定が真っ先に埋まるようになった。どこに行くかも、何を食べるかも、いつもギリギリに決めていった。
 何をしたい、これが食べたい、と言わない彼の代わりに私がいつも決めていた。"言わないから"だと思っていた。
 ただ、私が彼の気持ちを聞いていなかっただけなのかもしれない。
 そう考えてしまった時から、会うのが怖くなった。何を話せばいいのか分からなくなった。服の予定だけが、会う予定よりも先に決まってしまっていた。
 着飾ることが全て自分のためになってしまったのは、その時なのだと思う。出かける場所に合う服、彼の好きな服、そんなことは考えなくなってしまった。
 笑顔が減った。手を繋ぐことが減った。目を見つめることがなくなった。隣にいても距離ができて、仕事でスケジュールが埋まっていって、どうにかしようと思った時には手遅れだった。
 共通点がたくさんあって、一緒にいると落ち着いて、絶対に離れないと思っていたのに。

 


「運命の恋だと、信じてたのに」
 口に出したら、銀座の風がまたたく間に連れ去っていった。
 不揃いな建物をぼんやりと眺めながら、北に向かって歩く。北極星は見えない。ただ、知っているビルを頼りに。
 横を通る車の量が少なくて、静けさに耳が寂しくなった。中学時代を思い出して、インストールするだけで使っていなかったradikoを起動した。
 ラジオは好きだったのに彼が音楽しか聴かない人だったから、話を合わせるためにラジオの時間を全て音楽に捧げるようになった。ラジオを聴くのは、6年ぶりだ。
 誰だか分からないパーソナリティがゆっくりと近況を話している。隣に誰もいなくても、電波を繋げば耳元には必ず誰かがいる。眠れなかった学生時代の強い味方だった。受験の時もコロナ休校の時も、ずっとラジオを聞いていた。
 時折聞こえる、パーソナリティと放送作家の笑い声のハモりにつられて、ふと笑みがこぼれた。途端、すぐそこでクラクションの音が聞こえて、やっと我に返った。
 東京駅まで来ていた。仕事終わりのサラリーマンが右から左へ急かすように駅へと向かっていく。誰もかれも、縦画面に夢中になっていた。
 画面の中にはないものが、音には、声にはあると信じている。
 一晩明かした電話を思い出した。そんなこともあったっけ。何をしても楽しかった。無駄な時間は少しもなかった。
 気付けば、甘えていた。
「突然終わりがくるものなんだね」
 八重洲側はなんだかせわしなくて、丸ノ内が恋しくなった。東京駅のお土産街をふらふらと通り過ぎて、赤レンガの玄関にたどり着いた。

 行幸通りは美しい。朝も昼も夜も、いつも違う顔を見せてくれる。
 イヤホンからはジャズが聞こえてくる。外からは車や電車の音がかすかに聞こえてくる。どれもすごく遠い音のようだ。
 バッグに入っていた最後のチョコレイトを飲み込む。
 今なら、前を向ける気がした。
 忘れるなんてことではない。この気持ちを無かったことにはしない。
 ただ、もう振り返らないだけ。
 あの時言えなかった言葉を、あの時見せられなかった表情を、あの人がいない街で。
「さよなら」
 あなたのことは、胸に秘めておくから。

「ありがとう」

たったひとり

「ぷはー。仕事終わりのビールは最高!」
「部活終わりのジュースの間違いだから。一歩間違えたら犯罪者に間違われて捕まるよ」
「いやいやそんな大げさな」
「あんたは楽天的すぎ」
 ようやく沈む気配を見せてきた真夏のギラギラした太陽に背中を向け、駅からも学校からも少し離れた自販機でジュースを飲んでいた。目の前にいる友人があまりにも美味しそうにジュースを喉に流し込むため、一見過酷な部活を乗り越えた後かのように見えるが、実際はそうではない。
「ねえうちの部って本当に大丈夫なのかな。大会来月だよね?全然準備してないけど」
「先輩達はなんかいろいろ話し合ってたから大丈夫なんじゃない?」
「ダンスってそんなすぐに完成するものだっけ」
「いや?」
 ですよね~と目で語りかけた友人は、さほど深刻に考える気はないらしい。
 なぜなら、大会準備をしない時の活動は、彼女にとってはとても有意義な時間だから。
「ていうか見たよ!またTikTokバズってたでしょ。もうすっかり有名人だね」
「え、ほんと?どれ…あーほんとだ。へーこのダンス需要あるんだ」
「…知らなかったの?」
「うん。TikTokの通知切ってる」
 部活の時間のほとんどをダンス動画の撮影にあてているほど熱心なティックトッカーなのに、自分の動画の評価には興味がなさそうだ。そういえば、以前にも友達から「動画見たよ!」と話しかけられていた時も、すごくありきたりな表情で「ありがとう」と返していただけだったのを思い出す。
「ねえ、なんでそんなにTikTok頑張るの?」
「え?」
「どちらかというと、っていうか完全に、みんなにダンスを見てもらいたくてやってるわけじゃなさそうだよね」
「そうだね~」
 のんびりとそうつぶやきながらスマホをゆっくりスクロールしていたが、やがて、
「あ、まだいいねしてくれてない」
 とこぼした。
「誰が?」
「あの人。ほら、あの」
「あー。あんたの好きな人か」
「ちょっ声大きいって」
 今日一番の感情を見せた。確かに例の"あの人"と一緒にいる彼女はいつもよりよく笑う。笑うし、悲しむし、焦っている。この子の感情はあの人が一番上手に引き出すことができるのだろう。今もそうだけど。
 でもどうして彼が話題にのぼったのか、私には分からない。
「私はさ、別にたくさんいいねが欲しいわけじゃないんだよね。再生数が伸びようと、有名になろうと、別にどうでもいい」
「どうでもいいって…」
「だけどね、なんだろう、上手く言えないんだけど。いるんだよ、一人ずつ」
「誰が?」
「その動画を届けたい人が」
 いつになく真面目な表情で、じっと私の目を見つめてそう言った。その透き通るほど美しい瞳に吸い込まれそうになって、太陽がすでに落ちていることに初めて気付く。
 これがこの子の武器だ。この目が動画に写らなくとも、視聴者にはきっと届いている。だから動画が伸びるのだ。
 飲み込まれないように、かろうじて出てきた言葉を必死に繋ぐ。
「たった一人、なの?」
「うん。この動画は、確かにあの人に向けて出したけど、他の動画も、それぞれいてね。あーこれはこの人に見てもらいたいなーって思いながらいつも投稿してる。個人的に送るのは恥ずかしいじゃん。だからTikTok
 不特定多数に送る方がよっぽど勇気がいると思うが、そういうものなのか。
「たとえば、これ」
 そう言って差し出されたスマホには、洋楽に合わせて楽しそうに踊る彼女の姿があった。以前私も何度も何度も見た、お気に入りの動画だ。
「もしかして、私に向けて?」
 おずおずと尋ねると、恥ずかしそうに目線を逸らして小さく頷いた。別に好きな曲でも好きなステップでもないし、正直全く思い入れのないものが詰まった動画だったのに、妙にリピートしてしまった当時のことを思い出した。
「そうだったんだ。ありがとう、これ私の一番好きな動画」
「ほんと!?良かった~、やっぱり念を込めれば届くもんだね」
「そんな怖い言い方しないでよ」
「怖くないでしょ」
「そういうとこだよほんと」
「何がよ」
 近所迷惑寸前のところまで大笑いした私達は、空っぽになった缶をゴミ箱に投げて帰路についた。

「いつも見てくれんの?あの人は、動画」
「うん。結構いいねくれるから、ちゃんと見てくれてるっぽい」
「じゃあ今回も大丈夫だね。届けたい動画に限って見ない、なんてことないから」
「そうかな」
「そうだよ」
「だといいけど」
 この子にはまだまだ頑張ってほしいから、あの人の気持ちは内緒にしておこう。
 たった一人に届けるために大勢を相手にするその度胸と勇気は、何にも替えられない武器だから。
 そんな彼女を誇りに思っているから。
 夏の夜風が、火照った私達の頬を優しく撫でた。