小さな箱庭

夢物語

さよならのチョコレイト

 ライトが光る東京。
 小さなチョコレイトを一粒口に潜ませ、電車のドアをくぐった。
 広くて明るい夜の歩道を走り抜けて、今日もいつものお店へ走る。
 バックの紐を時々滑らせながら、握りしめたスマホで時間を確認しながら、昔からの仲間へ会いに。
「ごめん、お待たせ!」
 息を切らしながら地下への階段を下り、勢いよく開けたドアが閉まらないうちに謝罪の言葉が口からこぼれた。
 思い切りのいい大きな声は、このお店にも、この街にも似合わない。
「あ~、やっと来た」
「遅いよ、おつかれ」
 いつもの席で、いつもの二人が待っていた。
 高校時代から変わらないボブの髪をふわふわと揺らしていそいそとインスタをチェックする友人と、就活終わりにメイクだけ急いで仕上げたような姿なのに、きりっと大人びたもうひとり。明らかに語尾に曲線の伸ばし棒が入っているような人と一切入らなさそうな人という一見正反対な二人だが、三人集まればなぜだかバランスが取れている。
 誰からともなく連絡が始まって、気がついたらこのお店で集まっているのだ。
「ごめんごめん、ちょっと長引いちゃって」
「今日も忙しいね~。よっ、バイトリーダー」
「そのまま正社員に決まっちゃうんだから羨ましいわ」
「いやいや。そっちは就活順調?」
「見れば分かるでしょ?」
 自明の問いだ、とでも言わんばかりに来ている服をトンと叩いて見せてきた。一番早く就職が決まりそうだ、と話していたのに、気づけば彼女だけが未だ就活を続けている。そんな彼女が尋ねてきた。
「あれ、メイク変わった?」
「ほんとだ、今までのも好きだったけど、こっちも似合ってるわ~」
「すごい、二人は気付くんだ。ほんのちょっとだよ?」
 最近の気分でメイクを変えたのもあるが、実はだんだんと濃くなっているクマを隠すためでもあった。そのことはあとでゆっくり聞いてもらおうと思う。
「っていうか、最近めっちゃ働いてない?休みほぼないって聞いたし。大丈夫?そんなんだと彼氏に逃げられるよ~」
 横から「ちょっと」と小声で諫められてボブの友人は気まずそうな沈黙に立ち返った。そうだ。今日は私のこの話をするために集まったのだ。
「まあ大丈夫だから。二人ともそんなに神経質にならないでよ」
「あんたがそう言うんならね。それにしてもびっくりしたよ、結構長かったのに」
「高校入学してすぐの時からずっとだったでしょ。6年?7年?そろそろ結婚するんじゃないかな~ってみんなで羨んでたんだから」
「長く続けばいいってわけでもなかったんだよね」
 無理して笑みを作る必要もない。どんな自分も見せてきた二人だからこそ、思っていることをそのまま話せて、浮かんだ表情をそのまま出せる。二人もそれに対して気を遣うこともない。この距離感がたまらなく好きなのだ。
「じゃ、今日はたくさん話聞いてあげるから、いっぱい飲もう。乾杯」
 三つのワイングラスが、風鈴のように美しい色を響かせた。

 

 

 さよならは言えなかった。
 ラストシーンの海辺には、冷たい風が吹いていた。
 もうとっくに覚悟は決めていたのに、いざとなるとあの笑顔が焼き付いて、どうしても離れなくて。
 またいつものように名前を呼ぶその声を期待してしまった。
 でも、そんな時間は長くは続かなかった。
 水平線に日が落ちた時、私達は別々の道を歩き出した。
 言いたかったことはほとんど言えなかったのに、その日に持っていた最後のチョコレイトだけは、彼に渡すのを忘れなかった。

 


 たくさん話して、その分たくさん飲んで食べて、どこまでいっても満足には程遠いことは分かっているからこそ、私達は切り上げ方を知っている。いい頃合いだ、と雰囲気で示し合わせて、ゆっくりと支度をしてお店を後にした。
「喋ったね~」
「喋った。まだ足りないよ」
「私もう話すことないって」
 今日の話のネタは二人に搾り取られるだけ取られて、あとにはカラカラに渇いた喉だけが残ってしまった。彼とのことに対して好き勝手言ってきた二人だが、どの言葉にも棘はなかった。気付かれないように配慮をしてくれていたのだろう、と思い返して、お会計の端数は私が払うことにする。
「私明日も面接だから、今日はこれで帰るね」
「じゃあそろそろ解散にしよっか」
 三人の家のちょうど真ん中にあるこのターミナル駅は、いつもと変わらなかった。おのおの乗る電車や方向が見事に違うから、集合も解散も現地になるのにはすっかり慣れていた。
 いつもの挨拶を終えて二人と別れ、今日は違う路線に乗ってみた。
 街も二人も何も変わらないのに、私の人間関係は少しだけ変わってしまった。そのまま家に帰る気になれなくてなんとなく電車に揺られていたが、ドアの上の液晶から"銀座"という文字が目に入ってきて、なんとなくそこで降りた。
 あてもなく地下を歩き、気まぐれに出口を決めて外に出た。そこに何があるかは知らない。
 夜風に揺られて、ふと思う。
 そういえば、二人で銀座に来たことはなかった。
 セイコーの時計塔から照らされる灯りでオレンジ色に染まる街は、城下町の流れをくんでいるのか美しい平行線で構成されている。余裕と気品に溢れた銀座の夜に流れる時間はあまりにもゆっくりで、息をするのも楽になる。 
 小さく息を吐き、チョコレイトを含む。
 手を繋いで水平線を眺めたあの時のように、どこまでも行ける気がした。

 


 彼の住む街は、海の街。
 そこへ会いに行く時は決まって海辺を歩いた。
 時にはサンダルを両手に抱えながら、時にはローファーを水と砂でぐちゃぐちゃにしながら。
 大きな声で歌ったこともあった。
 漫画みたいなシチュエーションに憧れて、白いワンピースに白い帽子を着ていったこともあった。
 カレンダーの赤い数字の付く日は、いつしかその日に着る服の予定が真っ先に埋まるようになった。どこに行くかも、何を食べるかも、いつもギリギリに決めていった。
 何をしたい、これが食べたい、と言わない彼の代わりに私がいつも決めていた。"言わないから"だと思っていた。
 ただ、私が彼の気持ちを聞いていなかっただけなのかもしれない。
 そう考えてしまった時から、会うのが怖くなった。何を話せばいいのか分からなくなった。服の予定だけが、会う予定よりも先に決まってしまっていた。
 着飾ることが全て自分のためになってしまったのは、その時なのだと思う。出かける場所に合う服、彼の好きな服、そんなことは考えなくなってしまった。
 笑顔が減った。手を繋ぐことが減った。目を見つめることがなくなった。隣にいても距離ができて、仕事でスケジュールが埋まっていって、どうにかしようと思った時には手遅れだった。
 共通点がたくさんあって、一緒にいると落ち着いて、絶対に離れないと思っていたのに。

 


「運命の恋だと、信じてたのに」
 口に出したら、銀座の風がまたたく間に連れ去っていった。
 不揃いな建物をぼんやりと眺めながら、北に向かって歩く。北極星は見えない。ただ、知っているビルを頼りに。
 横を通る車の量が少なくて、静けさに耳が寂しくなった。中学時代を思い出して、インストールするだけで使っていなかったradikoを起動した。
 ラジオは好きだったのに彼が音楽しか聴かない人だったから、話を合わせるためにラジオの時間を全て音楽に捧げるようになった。ラジオを聴くのは、6年ぶりだ。
 誰だか分からないパーソナリティがゆっくりと近況を話している。隣に誰もいなくても、電波を繋げば耳元には必ず誰かがいる。眠れなかった学生時代の強い味方だった。受験の時もコロナ休校の時も、ずっとラジオを聞いていた。
 時折聞こえる、パーソナリティと放送作家の笑い声のハモりにつられて、ふと笑みがこぼれた。途端、すぐそこでクラクションの音が聞こえて、やっと我に返った。
 東京駅まで来ていた。仕事終わりのサラリーマンが右から左へ急かすように駅へと向かっていく。誰もかれも、縦画面に夢中になっていた。
 画面の中にはないものが、音には、声にはあると信じている。
 一晩明かした電話を思い出した。そんなこともあったっけ。何をしても楽しかった。無駄な時間は少しもなかった。
 気付けば、甘えていた。
「突然終わりがくるものなんだね」
 八重洲側はなんだかせわしなくて、丸ノ内が恋しくなった。東京駅のお土産街をふらふらと通り過ぎて、赤レンガの玄関にたどり着いた。

 行幸通りは美しい。朝も昼も夜も、いつも違う顔を見せてくれる。
 イヤホンからはジャズが聞こえてくる。外からは車や電車の音がかすかに聞こえてくる。どれもすごく遠い音のようだ。
 バッグに入っていた最後のチョコレイトを飲み込む。
 今なら、前を向ける気がした。
 忘れるなんてことではない。この気持ちを無かったことにはしない。
 ただ、もう振り返らないだけ。
 あの時言えなかった言葉を、あの時見せられなかった表情を、あの人がいない街で。
「さよなら」
 あなたのことは、胸に秘めておくから。

「ありがとう」